銀の道

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旅行会社企画担当者様対象 環境省 国立・国定公園への誘客の推進事業

歴史

経緯

銀山(上田銀山)のはじめ

  • 1641年(寛永18年)に現在の魚沼市下折立の百姓・源蔵が赤川表(現・只見川)沿いの天狗平で川鱒とりをしているところで、銀の鉱石を発見したことに始まる。
  • 当時の只見川上流はあまりの秘境のため、高田藩および隣接する会津藩との国境未確定地域となっていたが、この銀鉱山の発見は会津藩を刺激し、にわかに国境争いがわき起こった。解決には15年の年月を要したが、両藩の国境は只見川中央とする裁定が下り、明暦三年(1657)に銀山開きの神事が行われた。小出から銀山に至る間には宿場と御番所が設けられた。
  • 無人だった原野が鉱山町として栄え、最盛期には約2万5千人が働き、約千軒の家が並んだほどに発展し、遊女までが姿を見せたといわれている。

最盛期

 

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銀の道(最盛期)

  • 小出島(現・魚沼市小出)から銀山に至る峠道には8ヶ所の宿場・3ヶ所の番所が設けられた。また、銀山の中心地・須原口には本陣が、採鉱現場近くには十二山神社が設けられ、山間の秘境に一大鉱山街が出現するに至った。銀山の開発が知れるや、諸国から職人・商人・鉱夫・遊女が参集し、空前のにぎわいを見せた。
  • 高田藩による銀の採掘は足かけ25年に及んだが、1681年に高田藩主・松平光長は有名な高田騒動により改易され、銀山の採掘は中止となってしまった。やがて高田の商人・須浜屋が5ヶ年の期限付きで銀山の経営を再開した。1689年(元禄2年)には只見川を隔てた会津藩領からも銀鉱が発見されて白峯(しらぶ)銀山と名付けられ、上田銀山と白峯銀山を合わせて大福銀山と呼ばれた。江戸幕府は両銀山を直轄経営とし、河村瑞賢に山支配を行わせた。幕府へ上納された花降銀は、1698年(元禄10年)には1,044貫(約4,000kg)に達した

銀の道(越冬)

  • 当時、只見川・北ノ又川沿いは、上田銀山・白峯銀山の関係者合わせて2万5千人ほどが居住する一大鉱山街で、その中心街は千軒原と呼ばれた。十二山神社のほかに寺院が三山、温泉宿や遊女宿までがあった。ただこの地域は全国でも有数の豪雪地でもあり、入山は旧暦4月・下山は旧暦10月となっていた。下山時は代官所・会所・番所等の役人・人足は越冬隊を残して下山したが、越冬隊として山回り3人・雪かき人足10人・詰夫70人・使番および門番10人が、施設や道具の保守管理にあたったという。
 

 
1合目

坂本

峠のはじまり。
2合目

目覚し

ここで夜が明けることから。 
3合目

栖の木

水楢の大木がそびえ、格好の休憩場所であった。

4合目

水函

湧き出す水を箱にため、水場とした。

5合目

半腹石

峠の頂と麓との中間点。

6合目

中ノ水

付近一帯をこのように呼んでいた。

7合目

千体仏

多致の仏像安置したところから。

8合目

仏道

お堂があり、多数の仏像が安置されていた。

9合目

日本坂

日本中が見渡せるほどの展望。

10合目

大明神

山仕事や銀山並請の安仝を願って木花開耶姫(このはなさくやひめ) 命をまってある。

9合目

問屋場

問屋場で、季節遊女までいた。

8合目

水場

定かに水場の跡が確かめられ、湧き水が今も続く。

7合目

焼山

当時の山火事で、一蒂が 焼け果てたことから。

6合目

プナ坂

ブナの大木が茂っていた。

5合目

松尾根

松の巨木が繁っていた。

4合目

十七曲り

つづら折りの坂道。

3合目

オリソ

「御入り候」の転訛したものか?

2合目

榛の木(ハンノキ)

榛の木の巨木がそびえていた。

1合目

石抱

拷問所のあツった所。ひざの上に里石を積んで 自白を強要した。